昭和五十四年五月二十一日 朝の御理解


御理解第五十九節 「習うたことを忘れて、もどしても、師匠がどれだけ得をしたということはない。覚えておって出世をし、あの人のおかげでこれだけ出世したと言えば、それで師匠も喜ぶ。おかげを落としては、神は喜ばぬ。おかげを受けてくれれば、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃ。


 信心を覚える、とか体験する事は、お道の信心では、参るとか、拝むとかと、言う事と同時に教えを身につけると言う事である。
 だから教えが身につけば、言わば血に肉になれば、忘れようにも忘れようがない。只、おかげを受けると言う事だけに神様がござり、信心があると言う事であると、喉をも通れば、と言う例にもれず忘れてしまう。
 御理解第五十七節ですか、『金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる。神を杖につけば楽じゃ』と仰せられる。神様を頂いていうくと言うこと。そこには金に頼る事もなからなければ、木や竹、言うなら、人に頼る事もない。また自分の腕を過信すると言う事もない。神様のおかげを頂かなければ立行かん。そこに神様を外す訳にはいかん。教えを外す訳にはいかん。と言う事になるのじゃないでしょうか。してみると教えを、いよいよ身を以て行じ表わして行く日々であるなら、その限りない言うならば、稽古と言うか、ね、必ずや血に肉になっていく事でしょう。ね、教えを本気で、そこに行じよう、と。昨日、久留米の稲垣さんがここで、お届けをしておりましたのに、どういう場合であっても、何処へ行く場合であっても、さ、只今から合楽理念を以てその事に当たらせてもらう。また、その人に接しさせてもらう。と言う腹を作って参りますから、どういう事があっても、それが素晴らしいタイミングと、素晴らしい、有り難い結果になって行く。と言うお届けをしておられましたが、ね。もう、これを置いて行く訳にはいかん。ね、事々に、なら合楽理念を以て、とね。それは不思議な人間関係なんかと言うなは、特にそう言う毎日、体験をさせて頂いておられる事の、お届けがありました。そう言う事になればね、忘れようにも忘れられんで、いよいよ血に肉になっていく事でしょう。これは恐らく、只おかげを追い求める、と言う人達にくださった、み教えじゃないか、と言うひうに思うんです、ね。
 信心を求めて、信心を芯にして、今日一日があらなければならない。と言う生き方の人には、私はこの御理解はいらん。と言うような感じがする。いつもが神も喜び金光大神も喜び、氏子も喜びじゃと言う、この三つの喜びがいつも感じられる。と言う事になるのじゃないでしょうか。
 昨日、福山から一連れ、お参りして見えられたんですけれども、この前の団体参拝の時に、漏れておられた方達が、昨日は参って来とりました。それで、ある事をお願いされました時に、その方達に話した事ですけれども、とにかくね、朝の御祈念の中に、朝の御祈念をさせて頂く時には、一生懸命、もう、どんな事でもよいから願いなさい、ね。心に感じておる痛い、痒いの事から、ね、不安になる事、心配になる事から、もうそれこそ、どんな事でもよいから願いなさい。そして、昼はいよいよ、ね、心行、家業の行に取り組んでの一日であると、もう夜はお礼ばっかりでいいんです。それでもやはり、お粗末、御無礼のところがありますから、お詫び、朝が一生懸命、もう隅から隅まで願いなさい。もうこんな事は願うちゃならんと言う事は決してない。もう繰り返し願いなさい。そして昼は心行、家業の行に取り組ませてもろうて、ね。夜の御祈念に必ずそこに実証が頂かれる。
 だから、夜はもう、限りなくお礼を申しても申しても、と言うようなおかげが受けられる。と言う事を昨日聞いて頂きましたら、その方達がですね、今まであの方達は里庄ですか、あちらに大変有名な先生がおられましたが、先生が居られる時にも、先生はその事ばかりをおっしゃいましたと言うね。もう、とにかくどんな事でもいいから願えとこう仰った
 ところが、この頃から、只願いだけの信心では、何かこう福山から参って来る信者は、少し低級だと言われるのは、願い事だけだから低級だ、と言ったようなあれが、ありましたけれども、今、先生から、そう聞かせて貰うとです、ね。本当に今まで通りにどんな事でも願われる、と言う気がする。いや低級と言う事ではないけれども、ね。只言うなら合楽をお尋ね所だ、と言ったような程度でお参りをして来るから程度が低いと、言う事になるのであって、ね。もう私はその事を伝えさせて頂いて、思いましたんですけだも、確かにそうだと思うんです。もう、とにかく願いだけを願うがいいです。こんな事は願われん、と言うことはないです。
 もうどんなことでも、願うがいいです。そして言うならそれを、いよいよ願った事を確かなものにするために、いよいよ心行に取り組む、家業の行に取り組む、ね。言うならば心行、家業の行、言うならば合楽理念に取り組む。もう夜は限りなく御礼を申し上げなければおられないような、おかげが頂かれるだろうか。と、言うてお話した事でしたけど、ね。願いが足りない、ね。繰り返し、繰り返しのお願いが足りない。ね、とにかく万事よろしくお願いします。じゃいかん、この神様はね。もうそれこそ、そんなに細々しう、言わんでも神には分かっとる。ああ、せからしか、と言ったような事は絶対ない、ね。そこからです、願いの信心の、と言う事が素晴らしい事を体験させてもらう、ね。そこから、いよいよ合楽理念に取り組ませて頂く、言うなら、心行、家業の行に精根を打ち込ましてもらう。どんなに体が疲れておる時であっても、疲れておれば、疲れておるほど、深い祈りと言うか、深いお礼が申し上げられる。そう言う日々を繰り返していく限り、私は忘れようにも、忘れられない事になるのじゃないでしょうか。
 何故かと言うと、人間は願わねばならない事がいっぱいなのだから、それを言うならば、一篇通りでなくて繰り返し、繰り返し神様がよっしゃと、こう合点して下さる、それを感じるまで、願い抜かせてもらう、ね。そして夜はもう心いくまでの、言うならお礼が出来るような信心を身につけていく。言うならばそれ程しに合楽理念を身につけて、いくならばね。いよいよ神を杖につく事になるでしょうし、ね。神を杖につけば楽じゃと言うおかげにもなって来る。同時に、神も喜び、金光大神も喜び、氏子も喜びじゃと言うような、三者一体となっての喜びに浸り、しかもその信心の度合いと言うものは、段々深く、大きくなっていくのですから。
 私は昨日、福山の方のお取り次ぎをさせて頂いておって、ここでもう、とにかく何でも、どんな事でも願いなさいと、言われた時に、合楽では何でも願われんような、あれになっとんなさったのじゃなかろうか、と。願うと言う事は程度が低いように、思い込もうとしておられたのじゃなかろうか。もう、それこそ、ふうっと、もうそれこそ、先生が亡くなられて、十年なら十年経ちました。今日ふっと先生の教えておられた事を、何か思い出されたような感じでした。ね。
 所謂、先生の信心を言うならば忘却する。忘れておったと、ね。それが合楽に見えて、また、こう再び燃え出して来る。そして合楽の信心が願いの信心、そこにおかげが受けられる。それこそ、ね、夜はもう本当にお礼だけですむような、日々と言うように、それが行じられたら、そういうおかげになって来ると思うなです。ね、もう本当に夜は何にもない。もう本当に一日の事のお礼を、繰り返し、繰り返し、お礼を申し上げても、お礼申し上げても足りん。と言うような日々を過ごしたいですね。    「どうぞ。」